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皇帝ネロの生い立ちや暴君ぶりや面白いエピソードなどについて!

皇帝ネロの生い立ちや暴君ぶりや面白いピソードなどについて

 

皇帝ネロといえば、第5代ローマ皇帝で、暴君ぶりがすごかったということで知られています。

 

彼は周囲の人間や民衆から恐れられていましたが、一方で、彼のことを慕っていた民衆もいたみたいです。

 

この記事では皇帝ネロの生い立ちと暴君ぶりと意外なエピソード、その最期について紹介していきます。

 

 

皇帝ネロの生い立ち

 

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37年12月15日生まれ

68年6月9日に亡くなっています。

 

ネロは37年12月15日に現イタリアのアンツィオにて生まれました。

 

父はのマルクス・アントニウスの孫で、母はのカエサルの姪の子孫であり、初代皇帝アウグストゥスの曾孫でした。

 

そんな家柄に恵まれたネロでしたが、幼い時期に不幸に見舞われます。

 

3歳のときに父が死亡

 

母は政敵から追い出されてしまいます。

 

ネロは叔母に引き取られました。

 

その3年後、その政敵が亡くなったため、そのタイミングで母が戻ってきます。

 

母は策略家で、あの手この手を使います。

 

まずは第4代皇帝クラディウスの皇妃となり、

 

ネロも第4代皇帝の養子になります。

 

そして、54年にクラウディウスが亡くなり、ネロは18歳の若さで第5代ローマ皇帝になったのです。

 

ネロはどうして暴君と言われているの?

 

皇帝ネロは世界史上でも、非常に暴虐な皇帝の一人として知られています。

 

ネロは皇帝になったあと、さまざまな暴君ぶりを発揮しましたが、具体的には以下のようなことをしました。

 

・異母兄弟を殺害

 

・母を殺害

 

・最初の妻を自殺に追いやった

 

・家庭教師のセネカを自殺に追いやった

 

・ローマ大火の犯人としてキリスト教徒を迫害

 

ネロ自身の出世に大きく貢献してくれた母を殺害したことや

 

世界史上初めてキリスト教徒の迫害したことなど、ひどい話ですね。

 

計画性があったことなのか、感情的なものなのかはわかりませんが、ネロの悪事は裏に別の人間の影響があるみたいな説もあります。

 

多くの人の恨みを買ったネロは「国家の敵」とされ、最後には自殺に追いやられました。

 

ネロの面白いエピソード?

 

そんな暴君ネロですが、おちゃめなところもあり、信じられませんが一部の民衆から慕われていたとも言われています。

 

ネロは芸術を好んでいました。

 

自身、歌手になりたいと思っていたそうです。

 

64年に、ネロ皇帝は詩を独唱するリサイタルを開催します。

 

多くの人がネロの詩を聞くために劇場に集まります。

 

そして、開催直前。

 

地震にて中止

 

多くの観客が地震を恐れ、逃げ帰ったそうです。

 

翌年、またネロの詩の独唱会が開催されます。

 

また多くの人がやってきました。

 

そして独唱会が始まります。

 

しかし、あまりにもつまらな過ぎて、帰ろうとする人が続出しました。

 

でも警備員が出口を塞いで帰らせてくれません。

 

そこで人々は死んだふりをしたり、産気づいたふりをしたりして、どさくさにまぎれてなんとか無理やり逃げ出したそうです。

 

ちなみにネロの親友は居眠りしてしまい、ネロから絶交を言い渡されたのだそうです。

 

まとめ

 

皇帝ネロは暴君として人々から恐れられる一方で、ジャイアンのようなメンタリティーを発揮し、市民から人気?も得ていたと言われています。

 

その証拠に、ネロの死後、その墓にはローマの市民からお供え物や献花が絶えなかったといわれています。

 

以上、皇帝ネロについての生い立ちとエピソードでした。

ヴィクトール・フランクルの生い立ちと「夜と霧」のあらすじや背景について

 

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ドイツのナチスがその名を轟かせていた最悪の時期を記した『夜と霧』の著者ヴィクトール・フランクル


世界17カ国で翻訳され、今なお読みつがれている同書と著者をご紹介しましょう。

 

ヴィクトール・フランクルとは

 

まずは著者である「ヴィクトール・フランク」氏についてみていきましょう。

 

 

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本名    ヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl)
生誕    1905年3月26日
死没    1997年9月2日(92歳)
国籍    オーストリア
職業    精神科医・脳外科医・心理学者

 

ウィーン大学在学中に精神医学を学び、同大学の医学部精神科教授とウィーン市立病院精神科部長を兼任。


病院では女性の自殺患者部門の責任者を務めていたが、1938年ナチスのオーストリア併合により、ユダヤ人によるドイツ人の治療が禁止されその任を解かれる。

 

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1941年に強制収容所であるテレージエンシュタットに収容され、父を含め家族を失う。


1944年かのアウシュビッツに送られるも、その3日後にテュルクハイムに移送され、そこで翌年アメリカ軍により解放される。

 

最初の結婚はわずか1年足らずで収容所送りになり死別してしまい、1941年に再婚をしています。


実はフランクル氏一人であれば、アメリカへの亡命準備ができていたそうです。


当時書きかけていた論文も、亡命すれば完成させることができ、それにより自身の証を残すことができる。


しかし、そのために家族全員が犠牲になることに絶えられなかったフランクル氏は、せっかくのアメリカ行きのピザを失効させてしまうのです。


その決断は、家族とのつながりに重きを置くユダヤ教徒の教えでありました。

 

収容所を経験する前から精神科医であったフランクル氏ですが、収容所の経験を元にまとめた『夜と霧』はまさに人間の本性が映し出されています。

 

ぜひ読んでほしい『夜と霧』

 

フランクル氏は収容所を何箇所か移送されていますが、『夜と霧』はアウシュビッツに到着後別に移送され開放されるまでのわずか半年間の経験をまとめたものです。

 

表題の『夜と霧』とは、「夜と霧に隠れて、夜陰に乗じて」という、ナチスドイツ軍が人々を拉致し抹殺するという作戦名のことです。

 

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フランクル氏はアウシュビッツには3日間しか滞在していませんでしたが、その僅かな時間でこれほどまでと思えるような体験をしています。


かくも人間とはここまで残忍になれるのか、そんな行いの数々が記されているわけですが、ただ闇雲にナチスの行いを弾劾するだけの内容ではありません。

 

そこから導き出される己のあり方や、他者への心の向け方など、心理学者として分析もしています。


ひたすらポジティブに生きよ、といった自己啓発的な内容ではなく、闇を知りそこからどう向き合うのかというものです。


日々苦しみや死を間近にみてきたからこそ、それを無かったことにするのではなくどう活かすのかという考えなのですね。

 

人間の最悪をみてきたにもかかわらず、フランクル氏はユーモアとウィットを愛する快活な人でした。


もし孤独を感じたり、絶望で立ち上がれないと感じている人がいるなら、ぜひ『夜と霧』を手にとってみてください。


他者の不幸をみて自身を軽く思えとはいいません。いまの辛さを乗り越える一歩が見つかるかもしれません。

ノーベル賞受賞者で特にキャラが濃い人・変わり者とそのエピソード!

 

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「ノーベル賞受賞者」といえば、世界が認めたすごい人!の代表みたいなものですよね。 


ですが、実生活でも時折感じるように「すごい人」は、時に「変わり者」であることがあります。


世界のすごい人の代表「ノーベル賞受賞者」のなかにも、「変わり者」がいらっしゃるんです。

 

変わり者といえばこの人

 

ノーベル賞受賞者で、かつ変わり者といえばキャリー博士がダントツ!

 

 

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本名     キャリー・バンクス・マリス(Kary Banks Mullis)
生年月日  1944年12月28日  
国籍     アメリカ合衆国
研究分野  分子生物学
出身校    ジョージア工科大学
        カリフォルニア大学バークレー校

 

キャリー博士がノーベル賞を受賞したのは、「ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)法」を発見した功績から。


PCR法とは、DNAの増幅方法で、この発見により分子生物学の進展に大きな影響を与えました。

 

キャリー博士の破天荒ぶりは、その専門分野を選択したことからもわかります。


もともと天文学が好きで学生時代に書いた論文があの「nature紙」に載るほどの才能があったにもかかわらず、
「天文学では女の子にモテない!」
という理由で、生化学・化学を本業にしてしまったんです。

 

女性にモテたいと選んだ生化学ですが、その生化学のせいである女性にフラレてしまったこともあります。

 

ある日夜のドライブデートをしていると、突然公式が頭に浮かんできたそうです。


急いで車を止めて浮かんだ公式をそこらの紙切れにメモして考え始めます。


当然同乗していた女性は放置。


これが原因で彼女とは別れたそうですが、その時に浮かんだ公式が「PCR法」だったんです。

 

博士のサーフィン好きはよく知られるところで、ノーベル賞の受賞が決まったときもサーフィンを楽しんでいたそうです。

 

記者が受賞のコメントを貰いに海辺に行きますが、どれが博士か見つけるのに苦労したというのは有名な話です。

 

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博士は自身の言動については「素行が良くない」と自覚していたそうで、受賞前のコメントでも
「自分は非常に身持ちが悪いので、ノーベル賞はもらえないかもしれない」
審査員の評価はきっと悪いだろうと自覚していたようですね。


しかし受賞が決まったときには「もらう!もらうよ!」と、子供のように大興奮したんだとか。

 

他にも
・宿泊先のホテルから通行人にレーザーポインターをあてて逮捕されそうになる
・皇帝陛下に「Sweetie!(かわいこちゃん)」と声を掛ける
・デンマーク国王夫妻に「息子を婿にやるから変わりに領土を1/3くれ」と持ちかける
・HIVウイルスは存在しないとするエイズ否認主義である


多々奇行が見受けられます。(エイズ否認主義に関しては、生化学者としての考えがあるので奇行とは言えないかもしれません)

 

www.ted.com

 

上記は、あるプレゼンテーションの一幕です。


とても高度な、一般生活ではほぼきくことのない内容を話されているんですが、
例えが日常的でわかりやすいですよね。


博士が奇行に走る結果の一つがこの化学の身近さなのだとしたら、それも素晴らしい才能と言えそうです。 

 

こんなキャリー博士ですが、今は免疫に関する研究をおこなうベンチャー企業を率いています。


博士のひらめきで、より多くの病が救われるといいですよね。

 

あのアインシュタインの宿題をといた!

 

「変人科学者」といえばアインシュタイン。奇人・変人など様々な異名を持っている彼が出した最後の宿題をといた人がいます。 


それが「キップ・ソーン」博士です。

 

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本名    キップ・ステファン・ソーン(Kip Stephen Thorne)
生年月日 1940年6月1日
国籍    アメリカ合衆国

ソーン博士は、「重力波」の発見によりノーベル賞を受賞しました。


「重力波」とは、ブラックホールのような大きな質量を持つものが一定の運動をすると、時間と空間が歪むというもの。 


アインシュタインがその存在を予見していながらも、最後まで証明できなかったことから「アインシュタインからの宿題」といわれていました。


それを解明し、みごとノーベル賞を受賞したソーン博士のどこが変わり者なのか。

・ホーキング博士とブラックホール有無のかけにかち男性紙「ペントハウス」を1年分送られた
(大量の雑誌を妻に見つかりすべて処分された)
・映画「インター・ステラー」では自身の知識を惜しげもなくさらし、映画ファンならず科学者までも絶賛するものとなる
(のちに映画を元に新たな理論の論文が多数発表されライバルが増える)


ブラックホールのシーンは、博士が大きく関係したシーンで話題の部分でもあります。

 

科学者で、しかもノーベル賞対象者とまでいくとかなり自身の研究に固執する傾向が強いと思いますが、ソーン博士の場合は全く違うんですよね。


むしろ「皆さん、難しく考えないでください。こんなにおもしろいんですよ」と、公表して回るような。


だからなのか、自身の知識を掛けてみたり映画の制作に全面的に協力したりするのかもしれませんね。

 

ある研究者は、会社務めしながらの研究は会議や呼び出しなどの雑務が多くて集中できないからと一切無視したという方もいます。


専門的な研究に没頭するなら、これくらい徹底することもあるのかもしれませんが、
キャリー博士のような噛み砕いた説明や、ソーン博士のような身近なもので知ってもらおうというスタンスだと興味も湧きやすいのかも。

 

彼らの研究が今日の生活のあらゆるところに生かされているのだと思うと、
その奇行ぶりも、どこか微笑ましく思えてしまうかもしれませんね。

ドストエフスキーの生い立ちや結婚は?「罪と罰」が生まれた理由は?

 

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ドストエフスキーの『罪と罰』は、その内容こそ知らなくてもその表題だけは知っているという人も多いはず。


何度も映画化され、ドラマや舞台、コミックの原案にもなるほどの名作を生んだ「ドストエフスキー」とはどんな人なのでしょうか。

 

ドストエフスキーのプロフィール

 

まずは簡単なプロフィールのおさらいから。

 

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本名   フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー
誕生   1821年11月11日
死没   1881年2月9日(59歳)
国籍   ロシア帝国 
妻    マリア・ドミートリエヴィナ・イサーエワ(1人目の妻・死別)
     アンナ・スニートキナ(2人目の妻)
      

モスクワの貧民救済病院の医師を父に持ち、15歳までモスクワの生家で暮らしていました。


17際の時に陸軍中央工兵学校し、卒業後は工兵隊製図局に就職するも肌に合わず1年で退職してしまいます。


退職後は作家を目指し、1846年に発表した処女作『貧しき人々』は激賞され、華々しいデビューを飾ることに。

 

ところがその後の作品は酷評を受け、極貧生活の中で彼は「空想的社会主義」を唱えるようになります。


これは社会主義の初期版とも言えるもので、
「人類は皆平等である。故に協力しあって暮らすべきだ」
というものでした。

  

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 その主義が時のロシア皇帝ニコライ1世の絶対君主政治とは真逆だったため、投獄されて処刑宣告されてしまいます。


とうとう銃殺刑執行という直前に、なんと「特赦」と言う名の待ったがかかります。
シベリア送りという減刑が言い渡され、ドストエフスキーは九死に一生を得たのです。

 

厳しい地での刑期を勤め上げたドストエフスキーは、1858年にサンプトペテルブルクに戻ってきます。


その後の彼は、社会主義者からキリスト教的人道主義者へと思想の変化がありました。

 

主義や思想が変わっても、ドストエフスキーの書く小説は革命的思想を含んだものが多かったため、1924年から1953年のスターリン政権下では、ほとんどの作品が発禁処分を受けるほどに影響力がありました。

 

あの「罪と罰」誕生秘話

 

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ドストエフスキーといえばまず挙がるのが『罪と罰』ですね。


発表当初から現代に至るまで、その評価がずっと続いている作品というのは大変めずらしいものです。


このような名作が生まれた裏には、彼のある出来事が欠かせないと言われています。

 

それは「銃殺刑執行直後の執行中止」です。


死を目前にし、それを受け入れようとした直後の奇跡の生還。本人もさぞ驚いたことでしょう。


死んだ気になれば何でもできる!そんなふうに思ったのかもしれません。

 

現代社会において、一度罪を犯したものの社会復帰は難しいと言われていますが当時もそうでした。


しかしドストエフスキーはこの『罪と罰』の発表により、見事作家としてカンバックを成し遂げたんです。


あの「特赦」がなければ、『罪と罰』は生まれなかったかもしれなかったわけです。

 

その「特赦」ですが、実は巧妙に仕込まれていたいわば「出来レース」ともいわれています。


「一度死を覚悟したものは、そこから救い出されたら一生恩に感じるだろう」
そんな思惑があり、当時の有名作家達には時にこのような手段で帝国有利な思想展開をもくろんでいたともいわれています。

 

はたして『罪と罰』の人気は、そんな目論見通りだったのかまたは外れたのか。
興味のある方は、ぜひ本を読んでみてください。

シャルル・ボードレールの生い立ちは?代表作「悪の華」以外の作品や愛人などについて!

 

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「シャルル・ボードレール」の名前は知らなくても、アニメ『悪の華』はご存知の方がいるのでは?
アニメと同じタイトル『悪の華』の作者「シャルル・ボードレール」とはどんな人なのでしょうか。

 

・プロフィール

まずは簡単なプロフィール紹介から。

 

 

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本名    シャルル=ピエール・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire)
生誕    1821年4月9日
没年    1867年8月31日(46歳)
出身    フランス パリ
愛人    ジャンヌ・デュヴァル
代表作  悪の華

ボードレールの父親は大変裕福で、司祭や上院議会の議長を務めたこともあるほどの人でした。
晩婚だったこともあり、ボードレールが6歳の時に亡くなります。しかしその一年半後に母は再婚。
母の愛を一心に受けたと思った瞬間の再婚が、のちのボードレールの精神に大きく影響していきます。
彼は生涯独身でしたが、その一生で母親以外に愛情を傾けたのが「ジャンヌ・デュヴァル」でした。

 

 

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デュヴァルは黒人とのハーフでハイチで暮らす女優でした。
ボードレールは母親への愛情を鬱屈させ、母と正反対のみだらな女性とその日ばかりの生活を送っていました。
デュヴァルもやはり母とは正反対で、陶器のような白い肌と淑女のような母に対し、黒人で勝ち気な性格だったようです。
ボードレールはデュバルを「黒いビーナス」と呼び、時に離れたりもしながら常に愛情を傾けた相手でした。

ボードレールの詩の特徴として、まずは五感を刺激するような描写が多いという点です。
今でこそ一般的ですが、当時は味覚などの感覚を詩にするというのは画期的でした。
また、娼婦や憂鬱といったアンニュイな世界観もその特徴と言えます。

しかしその革新的な表現方法から、代表作『悪の華』は公序良俗に当たるとして罰金刑と発売禁止が言い渡されました。

 

・『悪の華』とその他代表作

 

セックスと死、ドラッグと絶望について綴った『悪の華』の発売禁止が解かれたのは、なんと1949年でした。
仮タイトルが「レズビアン」とつけるほどの内容は、当時としては悪影響を考えたのかもしれません。
吸血鬼とのセックス描写もあることを考えると、現代でも衝撃の内容といえるかもしれませんね。

 

 

 

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この『悪の華』の中では、愛人デュヴァルについて書いたものも多くあります。
「エキゾチックな香り」や「髪」などは、まさにそれが読んでわかるものです。

『悪の華』の他にと言うと『巴里の憂鬱』があります。
きらびやかで華やかなパリではなく、もっと身近な人々の集まる都市としてのパリを描いています。
読んでいると大勢の暮らす中、ただ一人孤独を感じるような感覚に陥りますが、
ただ憂鬱になるだけでなく、その言葉の端々に思わず酔ってしまうような美しさがあります。

 

 

 

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「エピローグ」には、ボードレールの想いが詰まっていると専門家はいいます。
病院や監獄など、美しき巴里とはかけ離れた言葉を出すことでより美を引き立たせているのだとか。

あまり知られていませんが、ボードレールは1冊だけ小説も発行しています。
『ラ・ファンファルロ』という、若い詩人サミュエルが主人公の小説です。

 

 

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作者の名前は「シャルル・デュファイス」となっていますが、これはボードレールのペンネームです。
主人公が詩人というあたりから想像ができるかもしれませんが、自身の体験を反映した物語です。

いまだにフランス人に絶大な影響力をもつ「シャルル・ボードレール」
彼の研ぎ澄まされた感性と、豊なほどの感情が詰まった作品に是非一度ふれてみてください。
もしかしたら自分の中の負の感情の扱い方が、変わってくるかもしれません。

スティーブン・ホーキング博士のプロフィール!年齢や学歴は?家族や結婚や死因も気になる!?

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宇宙物理学者のスティーブン・ホーキングさんが死去

宇宙物理学者のスティーブン・ホーキング博士が、亡くなったことをニュースで知りました。 

【ロンドン時事】「車いすの天才宇宙物理学者」として知られる英国のスティーブン・ホーキング博士が中部ケンブリッジの自宅で死去した。 〔写真特集〕追悼2018~ホーキング博士、大杉漣さん、星野仙一さん~  76歳だった。英メディアによると、家族の関係者が14日、明らかにした。  ホーキング博士は、量子力学や一般相対性理論などを駆使して、1960年代後半にブラックホールの存在を示したほか、83年には宇宙の始まりを解明する「無境界境界条件」論を展開するなど、新しい宇宙理論を提唱。現代宇宙論の進展に大きく貢献した。 ヤフーニュースより

そんなスティーブン・ホーキングさんについて、気になったのでいろいろ調べてみました。 

スティーブン・ホーキングさんの経歴

宇宙物理学者のスティーブン・ホーキングさんとは一体どんな人なんでしょうか?

 

スティーブン・ホーキングさんは、オックスフォード出身の宇宙物理学者で、1942年1月8日生まれの76歳でした。

 

学歴としてはオックスフォード大学を経て、ケンブリッジ大学大学院を卒業されています。

 

ホーキング博士は大学院の頃に、筋肉が衰える難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発病しました。

 

それでも学究生活を続け、1974年、最年少の32歳で英国学士院会員に選ばれました。

またアインシュタイン賞、ハーバード大名誉科学博士など多くの賞や学位を獲得されています。

スティーブン・ホーキングさんのご家族や死因などについて

ちなみにスティーブン・ホーキングさんは妻であるジェーンさんと結婚されています。

 

また、妻ジェーンさんとのあいだにはお子さんもいらっしゃるとのことです。

 

なお、スティーブン・ホーキングさんの死因については今のところわかっていません。

 

筆者は学生時代にホーキング博士の影響で、宇宙関連の本を何冊か読んだ思い出があります。

 

スティーブン・ホーキングさんのお悔やみを謹んで申し上げます

トーマス・エジソンってどんな人?奥さんや子供は?名言や発明品やエピソードなど!

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発熱電球や蓄音機など、現代社会において不可欠とも言えるような物の元を発明した偉大なる発明家。
そんな彼は、どんな生涯を送ったのでしょうか。

 

トーマス・エジソンって?

まずはエジソンのプロフィールを見ていきましょう。

 

 

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本名    トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison)
誕生    1847年2月11日
死没    1931年10月18日(84歳)
出身    アメリカ ニュージャージー州ウェストオレンジ
学歴    小学校中退
妻     メアリー・スティルウェル(1871-1884) 
       ミナ・ミラー(1886-1931)
子     トーマス・エジソン・ジュニア
      ウィリアム      
      マリオン
      チャールズ
      セオドア

「発明王」の異名を持つエジソンは、生涯に1300もの発明と技術革新を行った天才です。
その天才が小学校を中退というのは、かなり目を引くものですが、当時を知る人からすると納得なよう。
というのも、エジソン少年は好奇心の塊のような少年で常に「なぜ?」と教師陣に問いかけていました。
「1+1=2」の計算式が納得できず「1個の粘土と1個の粘土を混ぜたら大きな1個の塊になるのになぜ2個なの?」と聞いたのは有名な話。
その他にも数々の疑問をもち、たびたび授業は中断するため退学処分となったのです。

 

 

 

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そんなエジソンですが、発明で世の人に認めてもらった反面、1度目の結婚はその発明が元で悲惨な最期をむかえています。
発明や研究に没頭するあまり家に寄り付かなくなったエジソンを妻は気に病み、引きこもりの上体調を崩しわずか29歳で亡くなってしまったのです。

エジソンが初めてその発明品で認知されたのが、1877年に発表した『蓄音機』です。
彼は生涯、この蓄音機の改良を行い続けたと言われています。

また、既存の白熱電球の長寿命化をしたのも有名な発明の一つです。
長寿命化のカギを握るフィラメント素材に竹の繊維が最適だと気づき、世界中の竹の中から日本の京都の竹にいきつきました。

 

 

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今や一大エンターテイメントとして世界中で知られている『映像技術』も、エジソンがいなくては生まれていません。
映画を見る装置として『キネスコープ』と、映画を撮影するカメラを『キネトグラフ』といいます。
1893年のシカゴ万博でキネスコープによる上映がされると、わずか3年で全米の街に映画館ができました。

名言と発明品の数々

 

 

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「天才は1%のひらめきと99%努力」の言葉で知られるエジソンですが、その他にも名言を残しています。

「私は失敗したことがない。ただ1万通りのうなく行かない方法を見つけただけだ」
「失敗したわけではない。それを誤りだと言ってはいけない。勉強したのだといい給え」

物は言いようと言ってしまえばそれまでですが、このポジティブな考え方こそ、多くの発明を生み出した原動力なのではないでしょうか。

「私達の最大の弱点は諦めることにある。成功するのに最も確実な方法は、常にもう一回だけ試してみることだ」
「完全に満足しきった人がいたら、それは落伍者だ」

現状で満足しない、現状が限界だと諦めない、そんなチャレンジ精神が重要なのでしょうか。

そして彼の発明品には、それ単独で価値のあるものもあれば、彼がいなくては物の価値が下がっていたものもあります。
その代表的なものに「電話」があげられるんです。

「電話」事態は、グラハム・ベルという方が発明したものというのは周知の事実です。
しかしベルの発明した電話では長距離での通話が不完全でした。
その長距離通話を可能にしたのがエジソンで、その進化がなければ到底実用化しなかったと言われています。

 

 

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またエジソンの発明した電話には「ボイスレコーダー機能」もついていて、はじめての通話テストでエジソンが発した「ハロー」という言葉も、
その時から挨拶として使われるようになったといわれています。

現代の義務教育すらまともに受けていないエジソンが、これほどまでに現代に影響のある発明を残してくれました。
重要なのは「知識」か「好奇心」か。
現代を見たエジソンに、今一度聞いてみたいと思ってしまいます。